• ポートフォリオ機能


ポートフォリオを新規に作成して保存
既存のポートフォリオに追加保存

  • この表をプリントする
PDF PDFをダウンロード
審決分類 審判 全部無効 2項進歩性 無効としない A61K
審判 全部無効 1項3号刊行物記載 無効としない A61K
管理番号 1027264
審判番号 審判1999-35747  
総通号数 16 
発行国 日本国特許庁(JP) 
公報種別 特許審決公報 
発行日 1985-12-23 
種別 無効の審決 
審判請求日 1999-12-13 
確定日 2000-12-13 
事件の表示 上記当事者間の特許第1721544号発明「医薬組成物」の特許無効審判事件について、次のとおり審決する。 
結論 本件審判の請求は、成り立たない。 審判費用は、請求人の負担とする。 
理由 I.手続の経緯
本件特許第1721544号は、昭和59年6月7日に出願され、平成4年1月23日に出願公告された後、平成4年12月24日にその特許の設定の登録がなされたものである。
II.本件特許発明の要旨
本件特許の特許請求の範囲第1項に係る発明(以下、「本件特許発明」という。)の要旨は、特許明細書の記載からみて、その特許請求の範囲第1項に記載された、以下のとおりのものと認める。
「日本山人参を有効成分とすることを特徴とする肝機能改善用及び抗高脂血症用医薬組成物。」
III.請求人の主張と証拠方法
これに対して、無効審判請求人(以下、「請求人」という。)は、本件特許第1721544号を無効とする、審判費用は被請求人の負担とする、との審決を求め、その理由として、本件特許発明は、本件出願の日前である昭和58年8月25日に行われた、本件特許発明の発明者である愛媛大学医学部教授奥田拓道による講演や、講演会当日、参加者に配布された文書により、日本国内において公然知られた発明となっていたものであるか、又は当業者が日本国内において公然知られた発明に基づいて容易に発明をすることができたものであるから、特許法第29条第1項第1号の発明に該当し、又は同条第2項の規定により特許を受けることができないものであり、その特許は同法第123条第1項第2号に該当し無効にすべきである旨主張し、証拠方法として以下の書証及び人証を提出している。(平成11年12月13日付け審判請求書)
(証拠方法(書証))
甲第1号証:特許第1721544号原簿
甲第2号証:特公平4-3365号公報
甲第3号証:株式会社日本山人参研究所代理人作成にかかる内容証明郵便による回答書
甲第4号証:林吉活作成にかかる陳述書
甲第5号証:岩田タエ子作成にかかる陳述書
甲第6号証:谷口利夫作成にかかる陳述書
甲第7号証:「日本山人参の薬効」と題する文書
甲第8号証:大分市のホテルグロリヤにおける本件講演会の状況を撮影した写真
甲第9号証:広辞苑第4版の抜粋
甲第10号証:高木孝一・智子の戸籍謄本
甲第11号証:ホテルグロリヤにおける本件講演会の開催日の受付の状況を撮影した写真
甲第12号証:59年度年間指導予定表
甲第13号証の1:昭和58年8月の大分の気象概況
甲第13号証の2:昭和58年8月の大分地方気象台気象月表
甲第14号証の1:昭和59年6月の大分の気象概況
甲第14号証の2:昭和59年6月の大分地方気象台気象月表
甲第15号証:愛媛大学に対する照会申出書
甲第16号証:愛媛大学に対する照会申出書
甲第17号証:甲第11号証の写真の左端の人物の拡大写真
甲第18号証:1970年頃の高木智子が写った写真
甲第19号証:1970年頃の高木智子の写真
甲第20号証:乙第12号証と同一の写真
甲第21号証:松永惇一作成にかかる陳述書
甲第22号証:柴崎知子作成にかかる陳述書
甲第23号証:岩田タエ子作成にかかる陳述書
甲第24号証:守土弥生作成にかかる陳述書
甲第25号証:戸沢綾子作成にかかる陳述書
甲第26号証:浅野広子作成にかかる陳述書
甲第27号証:山中良幸作成にかかる陳述書
甲第28号証:林吉活作成にかかる陳述書
甲第29号証の1、2、3:日本山人参の本年8月の状況を写した写真及び新聞
甲第30号証:請求人作成にかかる陳述書
甲第31号証:印鑑の写真
甲第32号証:印鑑の印影
甲第33号証:請求人の実父の戸籍抄本
甲第34号証:柴崎十一郎の年金証書
参考資料1:株式会社グロリアの登記簿謄本
(証拠方法(人証))
証人 柴崎十一郎 学校法人府内学園理事
柴崎産業有限会社取締役
証人 岩田タエ子 飲食店経営
なお、証人尋問申請されていた証人、谷口利夫及び林吉活については、証人尋問の申請が取り下げられた。
IV.被請求人の主張と証拠方法
これに対して、被請求人は、奥田教授の講演会は、昭和58年8月25日に開催されておらず、本件出願の日後に開催されたものである旨反論して、結論のとおりの審決を求め、証拠方法として以下の書証及び人証を提出している。(平成12年4月6日付け答弁書)
(証拠方法(書証))
乙第1号証:特公平4-3365号公報
乙第2号証:奥田教授の講演会の写真
乙第3号証:大分地方裁判所平成9年(ワ)第388号特許権侵害行為差止等請求事件判決
乙第4号証:大分地方裁判所平成9年(ワ)第388号特許権侵害行為差止等請求事件における鈴木縁陳述書
乙第5号証:被請求人会社現金出納帳
乙第6号証:被請求人会社現金出納帳に基づいて作成された総勘定元帳
乙第7号証:大分地方裁判所平成9年(ワ)第388号特許権侵害行為差止等請求事件における第7回口頭弁論速記録
乙第8号証:高木智子陳述書
乙第9号証:高木智子印鑑登録証明書
乙第10号証の1:高木智子昭和58年8月16日〜21日の日記
乙第10号証の1:高木智子昭和58年8月24日〜28日の日記
乙第11号証:高木智子の昭和60〜61年の写真
乙第12号証の1:山口幸子の写真
乙第12号証の2:山口幸子の写真
乙第13号証:高木智子の住民票
乙第14号証:株式会社日本山人参研究所の登記簿謄本
乙第15号証の1:被請求人会社現金出納帳
乙第15号証の2:被請求人会社現金出納帳
乙第16号証:鈴木縁の子の母子手帳
乙第17号証:商標・書誌表示
乙第18号証:柴崎産業株式会社の登記簿謄本
乙第19号証:日本山人参生産組合製品の箱
乙第20号証:被請求人会社現金出納帳
乙第21号証:日本山人参生産組合パンフレット
乙第22号証:林吉活の請求人山中皇紀に対する依頼書
乙第23号証:昭和59年6月8日大分合同新聞(夕刊)
乙第24号証:山口幸子陳述書
乙第25号証:池尻典子陳述書
乙第26号証:昭和58年8月25日大分地方気象台地上気象観測日原簿
乙第27号証:昭和59年6月8日大分地方気象台地上気象観測日原簿
参考資料1:大字泉の抜粋
(証拠方法(人証))
証人 鈴木縁 株式会社日本山人参研究所役員
株式会社アンゼリカ役員
V.当審の判断
そこで、平成12年7月17日に特許庁公開審判廷で行われた証人尋問においてなされた上記各証人の証言及び上記各書証に基づいて、無効理由の当否を検討する。
1)愛媛大学医学部教授奥田拓道による講演会(以下、本件講演会という。)が開催されたという事実については両当事者間に争いはなく、本件講演会の開催日が昭和58年8月25日であったか、あるいは、本件出願の日後であったか、について、両当事者は争っている。(第1回口頭審理調書)
2)まず、請求人は、本件講演会が開催された日が昭和58年8月25日であることを立証するべく、同日に本件講演会に参加したとする林吉活、岩田タエ子、谷口利夫作成にかかる陳述書を提出し(甲第4〜6号証)、かかる岩田タエ子及び同じく本件講演会に参加したとする柴崎十一郎の証人尋問を申請し、さらには、大分市のホテルグロリヤにおける本件講演会の状況を撮影した写真(甲第8号証)を提出した。
3)そこで、この甲第8号証に示された2番目の写真をみると、式次第と題する縦書きの掲示物が写っており、その右から5〜8行目に
「二、日本山人参の栽培と製造について
(株)日本山人参研究所
代表取締役高木孝一
三、講演 奥田拓道先生」
なる記載があることが認められる。
このことから、本件講演会においては、奥田拓道の講演の前に株式会社日本山人参研究所の代表取締役である高木孝一が日本山人参の栽培と製造についてと題する講演をすることを示す式次第が掲示されていたことが推認される。
4)ところで、乙第14号証によれば、株式会社日本山人参研究所は、昭和59年5月8日に飛鳥食品株式会社から商号変更され、同年同月17日に登記された会社であることが認められる。
してみれば、株式会社日本山人参研究所という会社名は、昭和59年5月以降に使用されるようになったと解するのが普通である。
そうすると、株式会社日本山人参研究所の会社名を表すものと認められる「(株)日本山人参研究所」なる記載がある上記式次第が使用された本件講演会もまた、昭和59年5月以降に開催されたものと推認される。
5)この点について請求人は、飛鳥食品株式会社は、正式に商号変更する前から日本山人参研究所という通称で営業その他の活動を行っていたと聞いている旨主張し(第1回口頭審理調書)、証人柴崎十一郎は、商号変更が昭和59年だということは知らないが、その以前に、高木孝一が飛鳥食品と日本山人参研究所の両会社名を併用していたと記憶している旨証言し、証人岩田タエ子も、日本山人参の高木が飛鳥も使っていた旨証言している。
しかしながら、上記両会社名が、いつから併用されていたものであるかについては、両証人とも明確な証言をしていない。また、他の証拠方法を精査しても、上記両会社名が、いつから併用されていたものであるかについて窺い知ることができるものは見いだせず、そもそも、そのような併用がなされていたこと自体明らかにするものは見いだせない。
この点についてさらに請求人は、「請求人は、昭和58年8月頃、高木孝一が作成した「(株)日本山人参研究所」と記載された印鑑を高木孝一から受け取り、講演会の受付においていた日本山人参茶の袋に同印鑑を押捺した。」とも主張し(平成12年8月12日付け上申書)、その根拠として、上記印鑑は昭和58年8月頃高木孝一が作り、本件講演会の受付においてあった日本山人参茶の袋の表面に押捺していた旨の請求人作成にかかる陳述書(甲第30号証)、上記印鑑の写真(甲第31号証)、上記印鑑の印影(甲第32号証)を提出している。
しかしながら、かかる陳述書は、もとより証言によってその内容が裏付けられたものではないし、甲第31号証や甲第32号証も、上記印鑑をいつ誰が作り、いつどのように使用したものかを何ら明らかにするものではないから、甲第8号証及び乙第14号証に照らし、上記陳述書の内容は容易に信用できず、甲第30〜31号証に基づく請求人の主張は採用の余地がない。
したがって、株式会社日本山人参研究所なる会社名が、商号変更の8ヶ月以上も前である昭和58年8月25日に使用されていたものと認めることはできないし、同会社名が昭和59年5月以降に使用されるようになったものという認定を覆すこともできない。
6)以上述べたとおり、本件講演会は、甲第8号証及び乙第14号証からみて、昭和59年5月以降に開催されたものと推認される。
これに対し、証人柴崎十一郎は、退職した昭和58年に隠居所を改築し、それができあがった頃の同年8月下旬に本件講演会があった旨証言するが、該改築と本件講演会出席との関連が密接であるとはいえないし、また、証人岩田タエ子は、請求人の父親の昭和58年8月13日の初盆の後、本件講演会があった旨証言するが、該初盆と本件講演会出席との関連が密接であるとはいえないから、これらの証言は、本件講演会の開催日に関する限り、甲第8号証及び乙第14号証に照らし、容易に信用できない。
また、同日に本件講演会に参加したとする林吉活、谷口利夫作成にかかる陳述書は、もとより証言によってその内容が裏付けられたものではないが、甲第8号証及び乙第14号証に照らし、容易に信用できないことは上記証言と変わりがない。
7)また、請求人は、本件講演会に高木孝一と高木孝一の妻智子が出席していたこと、高木孝一と妻智子は、昭和58年12月6日付けで離婚の届出をなしており、夫婦が同席した本件講演会が離婚後の昭和59年ではあり得ないこと、むしろ、本件講演会の開催日時が離婚届日時である昭和58年12月6日以前であると推認できることを主張し(平成12年6月23日付け弁駁書)、証拠として、高木孝一・智子の戸籍謄本(甲第10号証)、及び、ホテルグロリヤにおける本件講演会の開催日の受付の状況を撮影した写真(甲第11号証)を提出している。そして、証人柴崎十一郎は甲第11号証の写真の向かって左側の女性が高木智子であること、及び、本件講演会の受付に高木智子がいたのは間違いないこと、本件講演会が終わって一時経って、高木智子が家出をしたと聞いていること、を証言している。また、証人岩田タエ子は、本件講演会のちょっと後に高木孝一から高木智子が家出をしたことを聞いた旨証言している。
これに対し、証人鈴木縁は、甲第11号証の写真の向かって左側の女性は自分の母親である高木智子ではなく、株式会社日本山人参研究所の当時の社員である山口某であること、高木智子は昭和58年8月25日当時体調を壊して入院していて講演会に出席していないこと、証人は、昭和57年11月3日に結婚したが、その前から父母の仲は非常に悪かったこと、高木智子は昭和57年11月にそれまで住んでいた家を出たこと、昭和58年8月25日には実質的に離婚状態であったことを証言している。
そうすると、本件講演会の受付に高木智子がいたか否かについて、証人柴崎十一郎・岩田タエ子の証言と証人鈴木縁の証言は、相対立するものとなるが、ここで、甲第10号証によれば、高木孝一・智子の離婚の届出の約1年前の昭和57年12月14日に両者の離婚の調停が成立していることが認められ、乙第13号証によれば、昭和57年12月22日に高木智子は転居していることが認められるから、少なくとも、高木智子は昭和57年11月にそれまで住んでいた家を出たこと、昭和58年8月25日には実質的に離婚状態であったこと、という証人鈴木縁の証言は、甲第10号証及び乙第13号証に照らし、信用できるものといえ、その一方、本件講演会が終わって一時経って、高木智子が家出をしたと聞いている旨の証人柴崎十一郎の証言、及び、本件講演会のちょっと後に高木孝一から高木智子が家出をしたことを聞いた旨の証人岩田タエ子の証言は、容易に信用できない。
してみれば、昭和59年のみならず、昭和58年8月25日の時点においても、高木夫妻は別居しており、少なくとも実質的に離婚状態にあったものと推認されるから、高木夫妻が同席したとされる本件講演会が、昭和59年に開催されたものとは考え難いのと同様に、昭和58年8月25日に開催されたものとも考え難い。もし、甲第11号証の写真の向かって左側の女性が高木智子であって高木夫妻が本件講演会に同席したのならば、高木夫妻は、仲の悪さや婚姻関係の有無に関わらず、本件講演会には同席する関係にあったものと考えざるを得ないし、むしろ、証人鈴木縁が証言するように、高木智子は本件講演会には参加していなかったと解する方が無理がないものといわざるを得ない。いずれにしても、夫婦が同席した本件講演会が離婚後の昭和59年ではあり得ず、昭和58年12月6日以前であると推認できる、という請求人の主張は採用できない。
なお、請求人は、甲第17〜28号証を提出して、甲第11号証の写真の向かって左側の女性が高木智子であるとする理由を縷々主張するが(平成12年8月12日付け上申書)、仮に甲第11号証の写真の向かって左側の女性が高木智子であって本件講演会の受付に高木智子がいたとしても、本件講演会の開催日時が昭和58年12月6日以前であると推認できるという請求人の主張が採用できないことは、上述のとおりである。
また、請求人は、昭和58年10月頃、請求人や林吉活は、高木孝一から、高木智子が所在不明になったという相談を受け、高木智子をさがしたという事実が認められるから、転居の届出如何に関わらず、実際上は昭和58年10月頃までは、高木智子と高木孝一は同居していたものと推認すべきである旨主張し(平成12年8月12日付け上申書)、その根拠として、昭和58年10月頃、高木智子が家出をしたので高木孝一に頼まれ高木智子の行き先を探した旨の林吉活の陳述書(甲第28号証)及び同趣旨の請求人の陳述書(甲第30号証)を提出している。
もとより、これらの陳述書は、証言によってその内容が裏付けられたものではないが、上記の通り、高木智子は、昭和57年11月にそれまで住んでいた家を出たことが推認されるから、昭和58年10月頃、請求人や林吉活が、高木孝一から高木智子が所在不明になったという相談を受け、高木智子をさがしたという陳述書の内容は、容易に信用できない。
したがって、請求人の上記主張は、その前提を欠くこととなるから、採用の余地がない。また、そもそも、本件講演会の受付に高木智子がいたとしても、本件講演会の開催日時が昭和58年12月6日以前であると推認できるという請求人の主張が採用できないことは、上述のとおりである。
8)また、請求人は、証人岩田タエ子が本件講演会が6月ではなく8月である根拠として、講演会当日に、受付においていた日本山人参茶は自分が作ったものであるが日本山人参茶を作る最も適切な時期は、8月であり、6月はお茶を揉むのには日本山人参の水分が多く困難であると証言したことを指摘して、本件講演会が昭和58年8月25日に開催されたと推認できると主張している。(平成12年8月12日付け上申書)
そこで、この点についての証人岩田タエ子の証言を検討するに、証人岩田タエ子は、本件講演会の前の日に、同証人が本件講演会の会場に持っていく日本山人参茶を揉んだこと、及び、同証人が揉んで会場に持っていった日本山人参茶が甲第11号証の写真の受付のお盆の中に写っていることを証言している。これらの証言からすれば、証人岩田タエ子は、日本山人参茶を本件講演会の会場に持参し、それを受付のお盆の中に置くか、または、受付にいた者に渡したものと推認される。しかし、その一方で、同証人は、受付の後ろを通ったとか、前は一応ちょっと通るなどという、不明確な証言の後、受付は素通りしたことを認める旨の証言をしている。
そうすると、日本山人参茶を本件講演会の会場に持参した行為に関する限り、証人岩田タエ子の証言には、互いに矛盾するものがあり、信憑性を欠くという他はないから、同証人が日本山人参茶を揉んだのが8月であるという証言から、直ちに、本件講演会が8月に開催されたものと推認することはできない。
9)また、請求人は、「講演日の天候は、晴れであって雨は降っていない。この点は、柴崎及び岩田証言から明らかであり、鈴木供述も天気がよかったことを否定しない。ところで、昭和58年8月25日の天候は「曇りのち晴れ」であって、降雨量はない(甲第13号証)。他方、昭和59年6月8日の天気は、「晴れ一時雨」であり、降雨量は、「34.5mm」であって、6月で2番目に降雨量の多い日であった(甲第14号証)。そうすると、講演日は、当日の天候の点からして、昭和58年8月25日であると推認すべきである。」と主張する。(平成12年8月12日付け上申書)
しかしながら、甲第14号証の2の昭和59年6月の大分地方気象台気象月表の最右側の下から2番目の欄には、「1時間降水量月最大値 25.5mm 8日00時20分〜01時20分」なる記載があることから、昭和59年6月8日の大分の降水量「34.5mm」のうち、「25.5mm」が、同日の午前0時20分から午前1時20分の間に降ったことが認められる。また、同じく甲第14号証の2の8日の日照時間の欄には、12.7という記載があり、同日は、日照時間が、12.7時間あったことが認められる。また、乙第23号証には、同日朝大分は雲量ゼロであったことが記載されている。これらの事柄を併せ考慮すると、昭和59年6月8日の大分では、午前0時20分から午前1時20分の間に25.5mmの雨が降った後、引き続き、9mmの雨が降ってから夜が明け、日中の大半は晴れと感じられる天気だったと推認され、本件講演会は昭和59年6月8日に開催されたのではないかと思う旨、及び、本件講演会当日は天気だっただろうと思う旨の証人鈴木縁の証言と何ら矛盾しない。
したがって、本件講演会の日は、当日の天候の点からして昭和58年8月25日であると推認すべきである、とする請求人の主張は、採用できない。
さらに請求人は、「乙第23号証によると、昭和59年6月8日につき「梅雨の晴れ間」と報道され、日中は同年同日も晴れであったことになる。しかし、右新聞報道によると、「1日だけの晴れ間、再び梅雨らしいお天気になる」とされる。ところで、柴崎証人は、講演会のころは、「大変暑い日が続いたときで」と証言する。そして、この証言は甲第13号証の2記載の同月同日ころの最高気温と符合する。このようにして、柴崎証言及び甲第13号証の2から、講演日は昭和58年8月25日であると推認され、昭和59年6月8日とは推認されない。」と主張している。(平成12年8月25日付け上申書)
しかしながら、先に述べたとおり、昭和58年8月下旬に本件講演会があった旨の証人柴崎十一郎の証言は、本件講演会の開催日に関する限り、甲第8号証及び乙第14号証に照らし、容易に信用できないのであるから、本件講演会の開催日頃の天候に関する同証人の証言もまた、容易に信用できるものではない。そもそも、大分において、「大変暑い日が続いたとき」といえるときが、昭和58年8月25日頃しかないといえるものでもないから、証人柴崎十一郎の上記証言及び甲第13号証の2から、直ちに、本件講演日が昭和58年8月25日であると推認することはできない。
したがって、請求人の上記主張も、採用することができない。
10)また、請求人は、奥田教授の昭和58年8月における大分出張については該当がない(甲第15号証)のに対し、昭和59年6月は同月7日から10日まで同教授は熊本市に出張していた(甲第16号証)との請求人の調査結果をもとに、8月は学生が休暇中なので大学教員は担当講義がなく、その間出張するときは、出張の届出をなすことなく、有給休暇を利用するのが一般であり、請求人主張の講演日と上記調査結果とは矛盾しないこと、及び、昭和59年6月8日には、奥田教授は熊本市に出張していたという事実が推認され、本件講演会の日は昭和59年6月8日とは推認できないことを主張している。(平成12年8月12日付け上申書)
なるほど、昭和59年6月7日から10日まで奥田拓道が熊本市に出張していた旨示す愛媛大学医学部長名の回答(甲第16号証)からみて、昭和59年6月7日から10日まで、奥田拓道は熊本市に出張していたという事実が推認されるが、熊本と大分の地理的関係からみて、昭和59年6月8日に奥田拓道が熊本から大分に出かけた可能性を否定できるものではないから、本件講演会の日が昭和59年6月8日とは推認できないとまではいえない。
なお、学生の休暇中、大学教員が出張するときは、出張の届出をせず、有給休暇を利用するのが一般であるという請求人の主張は、合理性に欠け、また、何らの裏付けを伴うものでもなく、到底採用できるものではない。
11)また、請求人は、「乙第6号証(現金出納帳)については、原本が存在しない(乙第5号証、100頁)。さらに、被請求人主張の講演日の当日である昭和59年6月8日付けで「奉名帳、墨、筆」が購入された旨の記載があるが、これらの備品が講演会より前に事前準備されておらず、講演会当日に購入されたとする点は極めて不自然である。」(平成12年8月12日付け上申書)、「鈴木縁は昭和57年7月より、会社の経理を担当するようになり(乙第5号証255頁)、月給を月に大体5万円受領していた(同号証183頁)。ところが、乙第20号証(昭和59年5月分現金出納帳)にはこの鈴木縁の給与の支払が記載されない。さらに、日本山人参製品製造のための原材料費の支出、同製品の売上げ等本来当然生じるべき経費、売上げが記載されていない(この点は乙第15号証も同じである。)。また林吉活は当時2万円の給料を受領していたがその記載もない。かくして、乙第20号証(及び乙第6号証、乙第15号証)は極めて不自然であって、信用できない。」(平成12年8月25日付け上申書)と主張するが、請求人が指摘する点が不自然であるか否かはともかく、指摘される点は、本件講演会が昭和59年5月以降に開催されたものと推認されるという認定に影響を与える内容とはいえない。
12)また、請求人は、「甲第8号証によると、同講演会の演題として「二 日本山人参の栽培と製造について」とあるから、当然ながら、日本山人参栽培の農家の人々が多数参加していた。ところで、6月は農繁期であって、農家の人々にとっては最も多忙な時期である。かかる時期に農家の人々の参加を予定する同講演会を開催することはない。」(平成12年8月12日付け上申書)とも主張するが、この主張には何らの根拠もなく、本件講演会が昭和59年5月以降に開催されたものと推認されるという認定にいささかも影響するものではない。
13)また、請求人は、「昭和56年、請求人、亡高木孝一、林吉活は、日本山人参の栽培・製造等の共同事業を始め(甲第30号証)、請求人は栽培を担当することになった。日本山人参は被請求人も述べるように多年栽培が普通であるが、講演会当日に持参した日本山人参茶は2年生のものであり、この事実からも、講演会の開催日時は昭和58年であると推認すべきものである。」(平成12年8月25日付け上申書)と主張するが、甲第30号証の陳述書は証言によって裏付けられたものでもなく、講演会当日に持参した日本山人参茶が2年生のものであることを明らかにする証拠の提出もない。
してみれば、請求人の上記主張も、何らの根拠もないものというほかはないから、本件講演会が昭和59年5月以降に開催されたものと推認されるという認定にいささかも影響するものではない。
14)以上述べたように、本件講演会は、甲第8号証及び乙第14号証からみて、昭和59年5月以降に開催されたものと推認されるから、本件講演会当日、参加者に配布された文書(以下、本件文書という。)も同様に、昭和59年5月以降に配布されたものと推認される。
してみれば、本件特許発明は、昭和58年8月25日に開催された本件講演会及び本件文書により日本国内で公然知られた発明になっていたとはいえない。また、そうであれば当然に、当業者が日本国内で公然知られた発明に基づいて容易に発明をすることができた発明であるともいえない。
VI.むすび
以上のとおりであるから、請求人が主張する理由及び提出した証拠方法によって、本件特許を無効にすることはできない。
よって、結論のとおり審決する。
 
審理終結日 2000-09-22 
結審通知日 2000-10-06 
審決日 2000-10-23 
出願番号 特願昭59-117957
審決分類 P 1 112・ 121- Y (A61K)
P 1 112・ 113- Y (A61K)
最終処分 不成立  
前審関与審査官 主代 静義田村 明照  
特許庁審判長 加藤 孔一
特許庁審判官 谷口 浩行
内藤 伸一
登録日 1992-12-24 
登録番号 特許第1721544号(P1721544)
発明の名称 医薬組成物  
代理人 児玉 喜博  
代理人 藤井 信孝  
代理人 伊藤 真  
代理人 藤井 信行  

プライバシーポリシー   セキュリティーポリシー   運営会社概要   サービスに関しての問い合わせ